「ひつようあく」
白く曇った窓ガラスを通じて、夕暮れの景色がふわりふわりと移ろいでいく。平凡な街並みは親元を離れる前と大して変わっていない。このまま眺めていたら座席下のヒーターの熱も相まって眠ってしまいそうだ。久しぶりにマスカラで伸ばした睫毛の重みとコンタクトの乾きに耐え兼ねて瞬きを繰り返しながら、私は車内を見回した。それぞれの長椅子に乗客がまばらに座っている。立っている者は誰もいない。それもそのはず。多くの人は明日からまた諸所の理由で嫌というほどお世話になるのだ。最終日とはいえ正月三が日から積極的に使いたくはない。
一貫したリズムに身を預けながら、昨年末のことを思い出す。昨年末、と言ってもつい一、二週間前のことだ。この時期を私は少し苦手に思う。クリスマスや大晦日という自分の充実ぶりを他人にアピールしなければならないイベントがただでさえ多いことに加え、急に忙しなくなる雰囲気に飲まれそうになるから。まるでその期間だけ頑張れば、未練と惰性でだらだらと過ごした一年がチャラになる暗黙のルールでもあるかのようだ。その証として、年が切り替わった瞬間に全てがリセットされる感覚に陥る。地球上の皆さん、また今年も同じラインから平等にスタートしましょう。そんな無言の圧力をかけられる気がする。明るい未来/期待/希望といった聞こえの良いフレーズを並べて。……などと偉そうなことを思いながらも、実際の私は中高時代の同級生二人と紅白歌合戦を横目に酒を酌み交わして毎年の大晦日を明かしているわけだが。
電車が到着した。線路沿いに設置された青い暴風壁は馴染みがある。ここは中学・高校の最寄り駅だった。各駅停車しか止まらないから、一本でも乗り遅れたり乗り過ごしたりすると大惨事だったな。そう懐かしみながら人気のないホームへ降り立つと、鋭い寒さが頬を打った。咄嗟にマフラーへ首を埋める。懐古するのもほどほどに、そそくさと改札へと続く下り階段へ向かった。
改札を抜けると、良子が私を待っていた。ピンク色の自転車に跨ったままスマートフォンを弄っている。彼女に会うのは恒例の年越し以来、約四十八時間ぶりだ。良子、と私は駆け寄った。気づいた彼女が顔を上げる。「お疲れ~」という、社会人になっても大学生の延長でつい使ってしまう挨拶を交わした。
駅舎を抜けてすぐの小さな商店街を歩く。「まだこのパン屋あるんだ」と隣の彼女を促したが、足先は既に斜め前のチェーン居酒屋へ向いていた。私たちの新年ご用達の店である。
木製の引き戸を開けた。「いらっしゃいませ~」と紺色の作務衣を着た男性が受付で出迎えた。
「二人なんですけど、空いてますか?」
店内の静まり返り具合からして聞かなくても分かることだが、一応。「あ、はい」と彼は返事をした。
靴を脱いで廊下に上がる。突き当り左手にある鍵付きのシューズボックスへしまうと、席へ案内された。予想通り、四~六人ほどが座れる掘り炬燵式の個室に客はほとんどいなかった。私鉄の各駅しか止まらないアクセス面に加え、時期も時期。だからこそ私たちは毎年利用しているのだが、年始早々シフトに入るアルバイトの人たちは大変だろう。
一番奥の四人掛け個室に通された。メニューにあまり目を通すことなく、ビールとつまみセットを注文した。
「吸ってもいい?」
店員がいなくなって良子が訊いてきた。私は頷いた。黒いポシェットから煙草一箱とライターを取り出す。テーブルの上にあった銀色の灰皿を手元へ引き寄せ、火を点けた。煙を燻らせながら天井を仰ぐ。施策に耽るその横顔を私は黙って眺めた。
やがて注文したものが運ばれてきた。良子が灰皿に吸殻を押し付け、私も居住まいを正す。ジョッキを手に持った。互いの面を突き合わせる。ようやくだ。自然と笑みが零れた。そして少し見つめ合った後、
「明けましておめでとうございまーす!」
と、高らかに乾杯した。勢いよくビールを煽る。強い炭酸と独特の苦みが喉奥へ刺激を与えた。
「はー、やっぱこの瞬間が最高だわ」
満面の笑みで良子が息を吐いた。ジョッキの中身は早くも三分の二ほどになっている。私は首を大きく縦に振った。
「これやらないと新年始まらない気がするよね」
「本当に。ていうか一昨日のエイル、まじでありえなくなかった?」
尖った口調で良子が尋ねる。早速始まった。枝豆を一房口に咥えながら「ありえなかったね」と相槌を打った。
エイルとは、もう一人の年越しメンバーだ。本名は坂上結紀。なぜエイルなのかと言うと、彼女がアルバイトをしているコスプレガールズバー『てぃんくる』での源氏名からだ。良子と二人でいる時はこちらで呼んでいる。
「なんか再来年に結婚するとか言ってんじゃん。でも、その相手って彼女いるんでしょ?」
「みたいね。聞くところによると、その人って大学院の二年生なんだって。だから今年の三月に卒業するんだけど、それまでに彼女と別れて自分と結婚するか否かの選択を迫っているらしい」
「怖っ」
良子が胸の前で両腕をクロスさせ、身を守るような体制を取った。
「なんか数年前も同じようなことなかった?」
「あったあった。結婚するかもとか言ってたバイト先の社員と一年半くらい同棲して振られたやつ」
「結局遊ばれたやつね。ていうか、それと関係ある話をして良い?」
「うん」
「なんか、その人と上手くいかなかったらこっちに来るらしいのよ」
「え? 福岡に?」
思わず聞き返した。良子が露骨に眉根を寄せる。新卒二年目の彼女は大手総合商社に勤めており、現在福岡に単身赴任している。
「紅白終わって絵里が居間で寝ちゃった後、二人で喋っていたのね。それでその話題になって。エイルは上手くいくみたいな口ぶりだったけど、現実問題その人は彼女と別れてないわけでしょう。だからあたし訊いたのね。もし駄目だったらどうするのって。そしたらこっち来てあたしと一緒に住みたいって。前にも同じようなことを言われたんだけど、別に本気だとは思ってなかったから、今回もまた適当に受け流したのね。ルームシェアしたら家賃浮くし、あたしは寝に帰るだけだからみたいな感じで冗談っぽくさ。そしたら彼女、なんて言ったと思う? 『うち、良子と住んだら働く気ないよ』だって!」
「まじ?」
「まじ」
苛立ちを込めた目で彼女が頷いた。
「働かなかったらお金どうするのって感じじゃん。そしたら少し在宅はするよ、って。でもそれは自分のお小遣いのためで生活費じゃなくない? って言及したら、『家事するからいいじゃん。住み込みの家政婦だと思ってよ』って開き直られた」
「それはヤバすぎる」
私は思わず吹き出した。本当にあった怖い話とはこのことだ。
「良子の話を聞いて思うんだけどさ、エイルってお金にしか興味ないよね。人のこともお金で見ているというか」
「その割には自分への投資がすごい」
「ストレス溜まると化粧品買い漁るし、数百万かけて整形もしているしね」
「整形するのは自由だけどね。ていうか、これは他の同期と会った時によく訊かれることなんだけどさ」
「あれでしょ。『どこが変わったの?』ってやつ」
「そうそう! 彼女は自分の顔がアップデートされたと思い込んでいるけれど、傍から見たら全然変わってないし。何なら元からそんなに可愛くないから更に返答に困る」
「でもエイル的には整形したことで私と同じくらいの顔偏差値になったらしいよ。SNSで呟いていた」
「は? 鏡見ろし。なんかさ、ずっと思っているんだけど、エイルってすぐ絵里と張り合おうとするよね。二人とも同じ大学だけどさ、エイルは現役で絵里は一つ浪人して入っているじゃん。うち受験勉強全然しなかったのに、受かっちゃったからさ~、って未だに言っているからね」
「もう六年前もだよ。そのくせ学生時代の思い出話は、整形するためにアルバイトしまくっていたことと初恋の男を忘れられないことだけだからね」
「友達もいなかったし。それに、絵里が編集プロダクションに就職したら、彼女も在宅でライターのアルバイトを始めたじゃん。編集ライターになるのは絵里の中学の頃からの夢だってエイルも知っているはずなのにさ」
「あはは。私の場合、今の会社で働けているのはほぼ奇跡みたいなところあるけどね」
ビールを口に含み、苦笑いを浮かべる。社長直属の部下として、確かにモノを書かせてもらってはいるものの、まだまだ無名だ。そんなのと張り合おうとしてくれているのなら、ありがたい話である。しかも私は人並みの仕事しかできない。拾ってもらえたのは、ただの上司の気まぐれ。
「……エイルってさ、働いている人を馬鹿にしているよね」
「分かる。それが態度に出ているから余計ムカつく」
低くなった私のトーンに合わせ、良子が真面目な顔で頷いた。
「家庭環境とか、家が貧乏だとか、身体が弱いとか、色んなこと言うけどさ。あたしからしたら、それって全部働かないための言い訳でしかないというか」
「多分さ、本当のところで弱い自分と向き合いたくないんだよ。上司に少しでも注意されたら、倍返しの勢いで歯向かいそうじゃん」
「自分は誰でも論破できちゃうから~、みたいなことよく言うしね。みんな面倒くさいと思っているだけなのに。第一、論破で来たところで何の意味もないでしょ」
「そうなんだよね。正直、エイルに本当のことって言い辛い。いつもお世辞ばかり言って誤魔化しちゃう(笑)」
「自分の一つ一つの言動が自分の首を絞めているって、いつになったら気づくのかなあ?」
「気づかないから大学卒業しても今年二十五歳フリーター・コスプレガールズバーでアルバイトなんでしょ」
「確かに」
「自分は特別って、いつまで経っても思い込んでいるからね」
「痛い奴だよ」
それからも私たちは延々と話し続けた。たまに職場や自分たちの近況を織り交ぜはしたものの、ちょっとした弾みで彼女のトピックに戻ってしまっていた。まさに話題の蟻地獄。彼女の愚痴だけで酒が進み、気づいた時には終電間際になっていた。私たちは慌てて居酒屋を出た。
良子と別れ、行きと同じがらんとしたホームへ立つ。夕方よりも一層密度の濃い寒さであることは間違いなかったが、興奮とアルコールの力で身体の芯は温かかった。
あんなに喋ったのに。それでもまだ話し足りないと悔しがる良子の顔が脳内に浮かんで、口元が緩んだ。今年吐き出せなかったものは来年に持ち越されるというのが暗黙のルール。しかし、今年また新しいネタが生み出されることは必至なので、お蔵入りになってしまうだろう。私たちにとって彼女の話は、多分一生尽きない。
こうして散々好き放題に言ってはいるものの、私たちはエイル、いや、坂上結紀のことが嫌いなわけでは決してない。常にスマートフォンを弄って情報を収集している彼女は様々なトレンドに詳しいし、名門大学にストレートで合格できるほど勉強もできる。第一、本当に嫌いだったら毎年の大晦日を三人で過ごしているはずがない。そりゃあ中高時代から現在まで、十二年もの月日が経っていれば、愚痴の百も二百も出てくる。むしろ、それがあるからこそ私と良子は強く共感し合い、安堵し合い、「こうならないよう今年も頑張ろう」と奮闘できる。言うなれば反面教師。結紀の存在は私たちにとってかけがえのない必要悪なのだ。
空を仰いだ。雲一つない濃紺のキャンバスで、青白い北極星だけが贅沢にちらちらと瞬いている。孤独な二等星は姿かたちを変えることのないまま、いつもその場で輝き続ける。
神様。私たちのために今年もどうか宜しくお願いします。
私の密かな願いは白い吐息となり、薄く闇夜へ溶けていった。
(完)
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